伝説の村「普代村」の開創年代は、定かではありません。義経北方伝説によると、文治5年(1189年)に義経が蝦夷に渡海するとき、この村を通り、方々の部落に滞在したという口碑と、それにまつわる地名等が多い点から推測すると、当時すでに村内に集落があったと思われます。
 普代の開創は遠く260年近く前で、その後南部領の統治下となり、野田代官所の支配を受けていたことが文献により明らかになっており、その後明治維新を迎え、北閉伊郡沼袋戸長役場に属し、明治4年から下閉伊郡普代村となっている。

義経北方コース

 源義経は、実の兄・頼朝に追われ、平泉で自刀したと記録に残っています。しかし人々は、義経は平泉から逃げ延びた・・・・という「義経北方伝説」を残しました。
 伝説によれば、義経は普代村の鵜鳥神社と不行道(現在の鳥居地区)の2ヶ所に立ち寄ったとのこと。不行道は、義経が土地の子供に道を尋ねたとき、子供が「ここから先へは行けない」と教えた場所です。

義経ゆかりの鵜鳥神社

 鵜鳥神社は平安時代の初めに開山。
 後に源義経によって建てられたと言われる。逃避行の最中の義経をなによりも慰めたのは、山道の静けさと、お岬様からの眺めだったのか…
 義経は、蝦夷地を目指す途中の建久2年(1190年)、卯子酉山で金色の鵜が子育てしているのを見て、神鳥であると思い、鵜鳥神社で7日7夜、海上安全と武運長久を祈りました。すると、「汝の願いを聞きとどけよう」と神様のお告げがありました。義経は感謝して山頂に鵜鳥大明神をまつり、翌年から4月8日を祭典としたということです。

 例大祭で奉納される鵜鳥神楽は、鎌倉時代に始まった山伏神楽の形を受け継ぐ、全国的にも重要な伝統芸能です。正月から始まる巡業は有名で、2ヶ月以上かけて、北は久慈市、南は釜石市まで、沿岸各地を巡って舞を披露します。これが文化庁に貴重な習俗と認められ、平成7年、宮古市の黒森神楽とともに「陸中海岸地方の廻り神楽」として、「記録作成等の処置を講ずべき無形民俗文化財」に選択されました。