鉄山染の歴史

割沢鉄山の歴史は、「普代村史(昭和59年1月 普代村発行)に詳細に記されています。

「割沢鉄山は文化13年(1816年)野田通り萩牛村(現普代村萩牛~割沢)に新設され、翌14年より経営された。南部藩では、安政4年(1857年)に大島高任が釜石の大橋で、溶鉱炉生産を行うまでは、九戸郡地方の砂鉄生産が、南部の鉄生産の中心となり、全国的にも出雲・中国製鉄と併称される二大生産地として知られていた。割沢鉄山は享和元年(1801)より野田通り野田村にあった板橋鉄山の代山として設けられたものである。板橋鉄山は岩泉の中村理助の経営であった。

当時の生産規模、砂鉄製錬方法や経営規模は、割沢鉄山の技術家であった小松貫平の書いた「割沢鉄山覚萬帳」に記載がある。

釜方には4人の職人を含む23人が従事していたとの記述があり、精錬に使用する道具の種類や個数から判断するに割沢鉄山には約150名の労務者がいたものと推察される。また、山内には、17棟、233.5坪の建物があった事が確認され、普代村の山奥に一大事業所が出現したと言える。決算面では、文政11年(1828年)には573両の利益を上げている。現代で言う「税引き後利益」は343両となり、きわめて高い利潤であったことが伺える。

当時は精錬に木炭を燃料とした。木炭を作るための原木が切りつくされると、新たな山林を求めて鉱山は移動しなければならなかった。

文書によって、文政10年(1828年)に割沢鉄山の代山として岩泉の松倉鉄山開設の願出をしていることが知られる。このようにして割沢鉄山も使命を果たして閉山となるのであるが、松倉鉄山の経営が軌道に乗るまで、割沢鉄山も経営され、文政14年(1831年)まで続いた。これによって普代村の鉱山事業は終了した。

割沢鉄山の存在は、普代村、ことに鉏鉄の移出港としての太田名部の人口増、家屋の増加をもたらした。」

当時の鉄山で働く人夫たちの使ったてぬぐいを染めた当時の色合いは、現代に復活した「鉄山染」の様に、深みを持ちながらも自然素材の優しい色合いであった事がしのばれます。

【出典】昭和59年1月 普代村発行「普代村史」(読みやすくするため、引用文を一部変更しています)

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